「Be Alive」
小柳ゆき 2000 (8/15)
T0P
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KINKYO
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BACKNUMBERS
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前言撤回、僕は小柳ゆきを肯定する。
唄を聴いていくと、僕はよくこの「前言撤回」をやらかし、あれほど街中で有線で、無理やり耳に流れ込んでくるたびに眉をひそめていたものをころっと喜んで聴くようになったりする。しかしこれこそ、唄を聴くうえで、またひとつのアーティストに傾倒したりするうえでの真骨頂でもあると思う。変化しつづけ、責めつづけ、成長しつづけ、退化しつづけるアーティストが好きだ。また、同じ唄でも聴くシチュエーション、心情、いっしょにいた人など、唄やそのアーティストの技量とまったく関係ないところでその唄に対する印象は、決まってしまうことも多々ある。要は、ちっぽけなひとつの唄に対しても、さまざまな視点が存在しうるということだ。僕という一人の人間が唄を聴くことを通してもそれを実感するのだから、僕じゃないほかの人を数に入れればそれこそものすごい沢山の視点が存在する。そして、そのアーティストのアルバムごと、唄ごとに、存在しうる視点は予測できないほどころころと変わり、増殖しつづけるものだということは容易に想像できるのである。だから、ジャンルや一般的なイメージにとらわれた商業音楽評論家たちの意見を読み聞きしていても、それはパイロットにこそなれ、しかし面白味は感じない。それら評論家の手にかかってしまった唄はまるで、檻に閉じ込められた奔放な野生動物に見える。
本題に戻ろう。小柳ゆきの唄のうまさには、彼女をはじめて知ったときからそれなりに驚かされていた。彼女だけでなく、倉木にしろ、宇多田にしろ、歌唱力とあわせてその年齢が話題になったりもしたが、それは歌唱力年功序列制という、日本の演歌のようなナンセンスな考え方の人たちが言うことであって、彼女たちがいくつであろうと、評価されるべき歌唱力だと思った。が、特に小柳ゆきのうまさには、同時に「巧さ」が見えすぎていて、いけ好かないところがあったのも事実である。なにか手を余しながら唄っているような感じ、力を使い切って唄えていないような感じが、「あなたのキスを数えましょう」ではどうも引っかかった。MISIAはフル回転しているような、躍動しているような印象が伝わってくる。それが伝わってこないのだ。それは、音楽的に見ると割合小さくまとまっている倉木や宇多田と並べてしまったということも原因のうちではないかと思っている。
このシングルを聴いて、初めて認識したのは小柳ゆきの声そのもののスケールの大きさである。この「Be Alive」は国産バラードのなかでも相当にスケールの大きいシングルだと思う。メロディーラインがとてもバタ臭いのだ。日本の和製ソウル系バラードにありがちな、スケールの小さい歌謡曲風のフェイクは一切ちりばめられていない。とくに、サビのボリューム感にそれがよく現れている。それだけに、逆にいえば大味に聴こえるのもまた事実ではあるが、こうした楽曲を完全に歌い上げることができる、それが小柳ゆきの存在価値だと思う。ほかのどの女性ヴォーカリストの声でも、これは実現し得ない。同じフル回転で、たとえ同じ馬力が出ていたとしても、MISIAと小柳ゆきは排気量が違う、そんな感じだ。そして車のエンジンがそうであるように、必ずしも排気量の大きいほうが良いとは限らない、それこそ好き好きである。
小柳ゆきのリリース済みの楽曲すべてを聞いたわけではないので、ファンの方には何をいまさらと言われてしまいそうだが、これまでのシングル曲は小柳ゆきの声の大きさに合う器ではなかったのかもしれない。せっかくの声のスケールが行き場を失って、窮屈な思いをしているような印象があった。今回のシングルで、そのパワーを生かしきった彼女に初めて出会った。そして、同じ和製R&Bと区切られるのがとても不自然に見えるほど、ライバルとの違いも見えてきたのである。そして、圧倒的に間口が広いはずのライバルと互角の支持を受けているということに、やはり音楽を聴く層の質の変化を見て取ることができるのである。小柳ゆきは、良質なメジャーリーグ味である。そして、メジャーリーグ味に「歌姫」という称号は、しかしあまりにも似合わないだろうと苦笑してしまうのである。さすがに「歌うアマゾネス」というのは失礼すぎかと思ったが。
ぶんせきは
KENTARO