「サウダージ」(9/23)
ポルノグラフィティ 2000
T0P/KINKYO / BACKNUMBERS /


松本人志が電波少年の番組中で言っていた言葉で、彼はアメリカ人を笑わせることのできる「笑い」を作ろうとがんばっているのだが、「アメリカ人には65パーセントの力で本(脚本)を書かなければだめだ。65パーセントというのは決して<手を抜く>ということではなくて、65パーセントの力をめいっぱい、発揮しなければいけないということで、これはすごく難しい。一生懸命いっとけ!とかいわれたのなら、それはすごく楽なのだが、いい塩梅でやるというのはある意味いちばんむずかしいことだ」というのがあるが、ポルノグラフィティの新曲を聴いて、僕はこの言葉を思い出した。これは輝かしい65パーセントの作品である。彼らの今まで見せてきた持ち味である、意味のないポップさが、この曲ではさらに爆発しているという感じがする。とても、とてもいい。僕はとても気に入ってしまった。

今の市井に流れる音楽を背景にすると、この曲は少なからず浮いてしまうのだろうか。しかし、80年代あたりには、こうした意味のないポップさが世を席巻していた。そして本物志向とか、アーティスティックとかそういう小難しい人たちは、日本のチャート上のポップスに背を向け、カッコつけ、結果としてものすごい長い前書きや、御託の並んだ曲を書き、それがニューミュージックから始まって、現在では、そうした「能書きたれ」の方がはるかに多くなってしまった。別に、それが悪いとかいいとかそういうことではない。素敵な曲もいっぱいあるし、屑みたいなのもいっぱいある。

ポルノグラフィティは、その曲や、テレビでうたっている姿を見ても、ポリシーとか、志とか、そういったものが殆ど感じられない。バンドという形をとりながら、ミュージシャン臭、アーティスト臭があまりしないのである。確固とした目的、自分にしかできない音楽を作るとか、今の音楽界に対する何らかのアンチテーゼとか、不思議ちゃんを演じるとか、そういうことが感じられないのだ。その点では、子供を喜ばすという目的のみを見据えて突っ走っている速水けんたろうお兄さんよりも、はるかに罪のないシンガーであり、存在である。

「サウダージ」というのは、蘭語で「郷愁」とか「哀愁」とかいう意味なんだそうだ。こんな言葉を、タイトルに持ってくるあたり、たとえばGLAYや、山下達郎や、ユーミンがもし同じことをしたならば、とてつもないインテリ臭が漂ってきて、また能書きに突き進むということになってしまうが、ポルノグラフィティには、そうした臭いがなぜか感じられず、まるで「この言葉の意味ってわかる?」のような、なぞなぞや頭の体操のような印象しか感じられない。「こんな言葉をオレは知っていて、タイトルに持ってきたんだ。どうだ。」というような、押し付けがましさがないのだ。サウンドは、ちょっとトレンドが過ぎつつある、ま、ある意味熟れ切っているラテン・ロックぽいものを、しかし、さらっと料理している。蘭語のタイトルといい、ラテン・ロックといい、そうとう狙いが感じられる恐れのある組み合わせのはずなのだが、しかしよく聴くと、今に始まったことではなく、中森明菜の「ミ・アモーレ」に代表されるように、この手の味付けは、よくよく古から使われてきたものだ。ラテンとかの能書き、肩書の前に、そのタイトルどおり、少しばかりの懐かしさを覚えさせられる、これもまた、ポルノグラフィティの、65パーセントの力のせいであろう。

全般的に、いわゆる音楽好き、音楽オタクのような人から見れば、突っ込まれる隙はいっぱいあるような気がする。しかし、彼らの中には35パーセントの隙が最初から用意されている。どのような突っ込みも、この35パーセントのある種広大な余裕の領域の中で、行き場を失い、尻すぼみになってしまうのではと思う。独自のポリシー、音楽のジャンルの多様性、USデビュー、自分の色をしゃかりきに見出し、それに向かって精一杯突っ張って、がんばって走りつづけるミュージシャンは、そうした余裕の領域が乏しいから、逆に足元をすくわれたときには思い切り転んでしまう。ファンとアンチの間では、果てのない泥仕合の議論戦が繰り広げられてしまったりする。

この楽曲をバンド形態でやる意味とか、旧態依然としたメロディー・アレンジとか、そういうものはいっぱい見えるが、それでもなぜかこの曲に反応し、この曲を口ずさんでしまう。ポルノグラフィティの罪作りな意味なしポップが、天然モノであるならば、これからもがんばって欲しいし、計算ずくならば、これからも巧くだまして欲しい。けして人生の重みとか、永遠の愛とか、そんな胡散臭い台詞をちりばめた説教ソングなどを世に出して、「おまえもか」とがっかりさせないで欲しい。



ぶんせきは
KENTARO