「ソファ」 (3/5)
斉藤和義 1999
 〜「前夜」との比較に見る斉藤和義の社会性とその温度〜
T0P/KINKYO / BACKNUMBERS /


斉藤和義の唄には、男らしさと女々しさの相反スレスレの所にあるセンチメンタリズム、ロマンチックな事象が存在するとともに、見逃してならないことに社会性(ここでの社会性とは「唄で世の中に何か言う」というモチベーションのことを指す)の存在がある。彼の唄の中には、繊細でロマンチックな男の視点から語られるラブソング「彼女」や「歌うたいのバラッド」などや、極めて内省的に思える作品「幸福な朝食、退屈な夕食」などが代表的な作品群としてある一方で、デビュー曲「僕の見たビートルズはTVの中」や今回取り上げる「ソファ」、そして「僕の踵はなかなか減らない」「君の顔が好きだ(この分類に関しては賛否あると思うが)」など、暗に「世の中に何か言う」という姿勢ののぞく楽曲もけして小さくない構成要素である。

「ソファ」の後半の部分、

何をそんなに知りたがってるの? 何をそんなに知りたがってるの?
それが何だか分からないなら 公園のベンチに聞いてごらん
ペットボトルを首から下げて 買ったばかりの自転車で
洒落たブティックのすぐ隣は キンコンカンコン鉄工所
前の車が何度もハザード出して それじゃいつが本当かわからない
目の前の欲しいもの 忘れてる捨てるもの
今はただ 君の言う通り それが本当の幸せなのかも

を読み、僕は82年にさだまさしがリリースした「夢の轍」に収録されている「前夜〜桃花鳥〜」という唄を思い出した。さだまさしは、グレープとして活動していた70年代前半を過ぎ、いわゆる「さだまさしの時代」といわれた70年代後半から80年代初頭にかけて、それまでのイメージであった「軟弱」「優しさ」からすこし居場所を変え社会に何か言う作品をリリースし始める。この唄はそうした「社会派さだまさし」が形成され、成熟に至りかけた頃の作品である。もっとも、それまで軟弱さと優しさ、メルヘン、のようなやわらかいイメージで、一部からは「多くのブスを動員するアーティスト」と揶揄されながらもビッグセールスを挙げてきたのだが、社会派へ変貌を遂げたさだまさしは、唄の内容が年寄り臭い、または説教臭いとそれまで動員してきた女性ファン層からも敬遠されるようになり、この「夢の轍」では実に2ndアルバム以来獲得しつづけてきたチャート1位も取ることがなく、前作の半分程度のセールスを挙げるにとどまった。もっとも、この「前夜」は後期の根強いさだまさしリスナー(社会派さだまさしについていけたファン層)には佳曲の誉れ高いものである。僕が思い出したのはこのフレーズだ。

どこかの国で戦さが起きたとTVのNEWSが言う
子供が実写フィルムを見て歓声をあげてる
皆他人事みたいな顔で人が死ぬ場面を見てる
怖いねと振り返れば番組はもう笑いに変わってた
わかってるそんな事は たぶん
ちいさな出来事 それより
僕等はむしろこの狭い部屋の平和で手一杯だもの
I'm all right I'm all right
そうともそれだけで十分に僕等は忙し過ぎる

微妙なニュアンスの違い。斉藤和義の「ソファ」の方に戻ると、この唄の中の男はいろいろとモノを思っているようである。「街はデータのスモッグだらけ」「馬鹿な事件を馬鹿が真似して/馬鹿が次々大袈裟にする」と嘆き、「前の車が何度もハザード出して/それじゃいつが本当かわからない」と訴える。しかし結局は「君の言うとおり夜がふける」わけであって、「それが本当の幸せなのかも」と結んでしまう。モノ思う心と相対して「君」を含めた周囲に流されている自分を甘受しているこの構造は、「前夜」においても同様で、狭い部屋の平和を精一杯守るそれだけで充分忙しすぎるわけで、「I'm all right」と結んでおり共通する。

では制作された時期が15年以上違うこの2曲のどこに違いがあるのか。それは、唄中の「男」のモノ思う対象幅、そしてその温度である。「前夜」において、「男」が思い危惧するモノ。それは「朱鷺が7羽に減ってしまう」ことであり、「どこかの国の戦」であり、「日本がAMERICAになってゆく」ことである。非常に社会性、事件性にあふれた対象である。それゆえ、そのことについて語られる言葉も「怖いねと振り返れば番組はもう笑いに変わってた」のように直截的である。に対し、「ソファ」のそれはもっとパーソナライズされており、あくまで「個」における外界を社会と見ることができる。それを展開し、喩えられているものを解釈し、大きなものへの意味付けをすることも出来ないことはないが、それにしてもこの二つの唄の「男」のモノ思う心の温度差や質というのは、そのままこの15年余りの年月の流れを経て一般に形成されてきた過程と類似していることに、マスの視点から考えると行き着くことができる。

今日び、社会性を楽曲に含めるというのは商業的な観点に立っても非常にやりにくい。そして70年代以前からの社会性を含んだ唄の変遷を見ていると視点はグローバルからローカル、またはパーソナルへ、そして表現手法も直截ではなく、適当な比喩、シニカルさが必要とされている。その度合いはますます強まり、いずれは書き手の思惑とは別にリスナーがそれを嗅ぎ分けることすら出来なくなるのではないかと思う。「ソファ」における社会性とは、構造的には相当にOLD FASHIONEDでありながら、ちりばめる言葉を吟味したおかげで極力臭みのない、いわば最終形として完成度が高いと思う。そして最終形の名のとおり、もしかしたらこの構造をもつ唄というのは、「ソファ」を最後に見ることがなくなるのではないか、という気もする。


ぶんせきは
KENTARO