「TIDAL」 (10/11)
FIONA APPLE 1996
T0P/KINKYO
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2ndアルバム「真実」が日本でもヒットした女性シンガー、フィオナ・アップル。アコースティック・ピアノを核としたそのサウンドは、気だるさとジャジーな雰囲気が概して特徴である。ライナー・ノーツを見ずしても、フィオナ自身が人生の中で複雑な、あるいは不幸な経験を積み重ねて来たことが見て(聴いて)とれるようだ。事実、彼女は思春期の早い時期にレイプの被害に遭い、その後通 信制の学校に通いつつ楽曲製作に励んでいたという。この1stアルバムのジャケットの、ハッキリと撮られていながら少し放心したような、影のある表情を浮かべているフィオナ、そこにはこのアルバムの中身を聴かずして知らしめるものがある。
日本でヒットした「真実」は、その原題が長いことから、ギネスブックに登録されたりと話題を振りまき、当時渋谷のタワーレコードにもリリースを告げる横断幕が大々的に張られた程、日本でも知名度をのばした作品であった。僕自身も、「真実」までは彼女の存在すら知らなかったし、特に期待をすることもなく「真実」を興味で買って聴いてみたクチである。 2ndを聴いて、まあ良いなということになると、1stが気になってくる。これはまあ道理である。てなわけで、1stの「TIDAL」を聴いてみたのだが、結論からいうと僕はこちらの方が好きだ。好きだと同時にこのアルバムにリアルタイムで出会えなかったことに対して悔やんだ。2ndを聴いたあとの1stは、何も知らずに「フィオナ・アップル=1st」という聴き方をした場合に比べてインパクトは半減のはずだ。これは惜しい。椎名林檎を知らぬ 人が、「勝訴ストリップ」のあと「無罪モラトリアム」を聴くのと、「無罪モラトリアム」を最初に聴くのとでは(おそらく)えらい違いがあると思う。それと同じだ。
プロになったアーティストには、良いにつけ悪いにつけ「洗練」という魔物が襲ってくる、と僕は思う。2ndのフィオナは、その程度はどうあれ、ある種「洗練」というゲートをくぐってしまったという印象を、1stを聴いたあと2ndを聴いて僕は抱いた。数年前から日本でもメインストリームの1翼となった「自分の傷を売り物にするミュージシャン(言葉は悪いが)」にとって、洗練は邪魔であった。Coccoの活動休止も、あとから思えばCoccoはリリースごとに多少なりとも洗練されていった、その違和感が関係しているのではないかと勘ぐりたくなるほどに。椎名林檎のインパクト・ダウンもそういった類いの要素が少なからず関係しているのだと僕は思う。楽曲製作の技巧が未熟なうちに、「傷」をさらけだした作品を書く。そのとき楽曲製作の未熟さは正に作用する。「傷」の凄惨さを伝える武器となって、テクニックの棘はプラスに作用するのだ。「無罪モラトリアム」の歌唱やギター・プレイ、さらにはアレンジの方向性の稚拙さにある種の効果 と魅力を感じた僕は、しかしこれは唯一無二の出来のアルバムであり、その後の椎名の作品を「無罪モラトリアム」と比較すること自体、ナンセンスだと思った。身にまとっていった「洗練」はその詞世界を薄めてしまう、もしくは「上手すぎる絵空事」に変えてしまうのだ。
翻って、この「TIDAL」には、全編にぎこちなさが漂う。このぎこちなさこそ1stの特権であり、同時にフィオナのような詞世界を持つミュージシャンには正に作用するぎこちなさである。歌唱も、どことなく座りが悪く、しかしそれが艶かしい息遣いとなって危うさを演出する。焦燥・喪失・傷付きやすさ、そうしたキイワードが至極効果 的にスピーカーの中から情け容赦なく降り注いで来る。「Shadow Boxer」のブルージーなヴォーカル、「Criminal」のツボにはまっていながら気だるさを忘れないフィルとピアノ・プレイ、全ては計算ではなし得ない緊張感と弛緩のせめぎあいである。 自ら湧き出たもの、例えば傷、例えば闇、そういったものをタネに商業音楽を製作することは、洗練との戦いであると思う。そしてそれは、おそらくもう勝負は決してしまっている。1stのあとの2nd「真実」は、ある意味ではかすんでしまった。内省という視点でフィオナに注目してしまった僕は、皮肉にも1stを聴いたことで今後の作品への興味をそがれてしまった。
ぶんせきは
KENTARO